大矢知手延べそうめん(おおやちてのべそうめん)の歴史について
大矢知手延べそうめんの歴史は江戸時代末に遡ります。
今から200年ほど前、旅の僧が大矢知を訪れた際、一宿一飯のお礼に、そうめんの製造を伝えたのが由来だと言われています。
以来、農家の冬の副業としてそうめん作りが盛んに行なわれ、大矢知はそうめんの郷へと成長していきました。
明治には近代的な灘式手延べ製法が伝わり、製麺業に従事する人たちが一気に増えていきます。
灘式とは、兵庫県の「灘のそうめん」が編み出した最新の大量生産技術のことです。
播州そうめんにも影響を与えたと言われていますが、灘のそうめん自体は現存していません。
この灘式手延べ製法によって、昭和の初めごろには大矢知地区には約300軒の製麺所がそうめん作りを行なっていたそうです。
しかし、昭和30年頃から製麺所が3つに分かれ、その内冷麦の生産が有名になり、生産数はそうめんよりも多くなっていきました。
東海地方でも大矢知といえば冷麦を連想する人が多いかもしれません。
現在では手延べそうめんの製麺所は少なくなりましたが、大矢知の人々にとって、そうめんといえばやはり大矢知手延べそうめんであり、200年途切れることなく受け継がれてきた伝統の味、全国に誇れる逸品です。
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